2005年

ーーー8/2ーーー 中央高速道沿線の山々

 
仕事の打ち合わせのために、日帰りで東京へ行った。木工仲間が運転する車で出かけたので、私は助手席で沿線の夏の風景を眺めながら、行き帰りを楽しく過ごした。安曇野から東京までの中央高速道を、自らハンドルを握らずに通過したのは、信州に越してから初めてのことである。

 晴天に恵まれ、山々がくっきりと美しかった。諏訪湖を過ぎれば、パノラマのような山岳景観が展開する。

 まず左に八ヶ岳、そして右に南アルプスの甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山、山頂だけちょこんと見える本邦第二の高峰北岳。富士見のあたりを過ぎると、正面に富士山がひときわ秀麗な姿を見せる。八ヶ岳を左後方に見送ると、「偽八ヶ岳」なる不名誉なあだ名がついている茅ケ岳が登場。その奥に奥秩父山塊の雄である金峰山。山頂に突き出た五丈岩が目印だ。金峰山の左にはミズガキ山が見えるが、ちょっと遠くて、険しい岩山のプロフィールが目立たない。

 甲府盆地を回り込んで勝沼にさしかかると、はっきりと指摘はしにくいが、大菩薩峠が見えているはずだ。このあたりから振り返れば、南アルプス南部の重鎮である赤石岳、荒川岳が遠望できる。

 笹子トンネルを抜け、相模湖を過ぎれば、小仏トンネルで高雄山の下を通り抜ける。関東平野へ出て、左に大岳山、御前山をはじめとする奥多摩の山々。そして右手後方には大山と丹沢山塊。

 いずれも若い頃何度となく通った山々である。当時のことを思い出すと、なんとも懐かしい。

 特に、金峰山。中学三年のときに、山岳部の夏合宿で登ったことを思い出す。中学校に山岳部があるというのも、今から考えれば奇妙であるが、ちゃんとテントを担ぎ、自炊をしながら登ったものである。これは私にとって初めての本格的な登山であった。

 今では主稜線を横断する自動車道ができ、誰でも簡単にアクセスできるようになり、中高年登山者が気軽に登る山となっている。しかし38年前の当時は、まだ深山幽谷のたたずまいを残す、静かな山域であった。少年の私にとっては、その山行はまるで一つの冒険であった。生きて帰れるのかという不安にかられるほど、奥秩父の谷は深く、山は大きかった。打ちひしがれるほどのプレッシャーを感じながら、山路をたどったのである。



ーーー8/9ーーー 新盆(あらぼん)

 知り合いの人と裏庭で立ち話しをしていたら、隣の家の○○氏がやってきて、水道の検針をしているのが見えた。知り合いが水道料金のしくみが良く分らないと言うので、それなら○○氏に聞いてみようということになった。私が「○○さん」と呼び掛けると、○○氏はチラッとこちらを見たが、そのまま向こうへ去ろうとする。再度「○○さん!」と声を掛けたが、○○氏は無言のまま立ち去っていった。

 「おかしな夢を見たものだ」と家内に話した。すると家内は真顔になって、「このお盆は○○さんの新盆よね。あなた忘れていたでしょう」と言った。「そう言えば、さっき車で通りかかったら、親戚の人たちがお墓の掃除をしていたよ」と私。

 我が家は今年町内会の班長を務めている。新盆があるときは、班長が班内の家庭に声を掛け、まとまってお参りに行くことになっている。

 ○○氏のつれない態度は、役目を忘れていた私に対する不満の表明だったのか。



ーーー8/16ーーー 含水率計

 念願がかなって、含水率計を手に入れた。木材の含水率を測定する装置である。これはオーストリア製の品物で、フランスで暮らす友人に頼んで、帰国の際に持参してもらった。日本でも代理店を通じて買えるが、かなり割高となる。輸入品だから仕方のないことであろうが。

 木材は乾燥した状態で使わないと具合が悪い。乾燥が不十分な材で家具を作ると、製品になってから歪んだりガタがきたりする。だから、木工家は木材の乾燥に気を使わなければならない。

 この含水率計があれば、材がちゃんと乾燥しているか否か、瞬時にして分る。木材の表面に当ててスイッチを押せば、画面に含水率が数値で現れる。材の比重による6段階の切り替えスイッチがあり、いろいろな材種に対応できる。深さ4センチまで測定できるから、家具の材ならこれでたいてい間に合うだろう。

 地域による気候の差で若干の違いはあるが、木材にはその環境に於いてこれ以上乾燥が進まないという限界がある。その状態での含水率を、気乾含水率という。この装置を使って含水率を測定し、それが気乾含水率に近ければ、その材は使って良い状態にあると言える。

 含水率を把握することは大切なことであるにも関わらず、なかなか良い測定器具が無かった。従来一般的だった含水率計は、2本の電極を材に打ち込み、その間の電気抵抗を測ることで含水率を知るものだった。しかしそれだと、材の表面に近い部分しか測定できない。また、材に傷が付くので、材を購入する際のチェックには具合が悪い。その点、この装置は安心である。測定精度は高く、オーストリアはもとより、日本の検査機関の認定も取得している。

 今まではこの装置無しでどうしていたのか、と言われるかも知れない。今までは、言わば時間の経過に委ねていたのである。生の材でも長い期間大気中に放置すると、少しづつ水分が抜けていく。これを自然乾燥、あるいは天然乾燥と言う。板の厚さ1寸(約3センチ)当り1年かければ、実用上問題ない程度に乾燥すると言われている。含水率を測定しなくとも、ある年月を経た材なら使っても良いのである。これはこれで、伝統的な正しい木工の考え方と言える。

 では逆に、今回何故この装置を入手する必要があったのか。それは、私の材の入手の仕方に、多少の変化が生じてきたからである。

 今までは、丸太を購入して製材し、自然乾燥させて使うというやり方がほとんどであった。しかし最近は、板の状態で売っている材を購入するケースも増えてきた。椅子などを多く作る場合は、その方が能率が良いからである。そうなると、売られている板が乾燥しているか否か、見極めなくてはならない。売り手を信用しないわけではないが、自然素材である木材は、扱い方によって品質に差が出る。同じストックの山の中でも、乾燥度合いが違うものすらある。購入してすぐに使いたい場合は特に、良く乾いている材を選ぶ必要がある。

 含水率計を手に入れて、半ば嬉しさのあまり、工房の中や材木置き場の木材を、片っ端から測定してみた。これがなかなか面白い。材の保管場所や保管の仕方で、含水率は随分違って来るのである。几帳面にデータを取れば、これで論文が一つ書けるのではないかと思われるくらいであった。

 

ーーー8/23ーーー 芸大との交流会

 
穂高町主催のイベントで、東京芸大との交流会があった。内容は、管楽器科の学生による中学校の吹奏楽部の指導、教授による講演、そして学生(+教授)による演奏会である。中学生の指導は昼間に行なわれ、夜は穂高町の夏期大学講座の一環として、講演と演奏会が開催された。

 国立大学の法人化のおかげで、大学と自治体の連携が進んでいるようだ。それでも、東京芸大のように芸術分野の最高峰を町に迎えるのは、他の市町村から見れば羨ましいことに違い無いと、開会の挨拶で町長が述べた。それはともかく、滅多に無い経験が只でできるのは有り難いことであると、家内と二人で出掛けて来たのである。

 会場の町民会館には、大勢の聴衆が集まっていた。中学校の吹奏楽部員とおぼしき集団も居たが、多くは一般の人々で、年配者も多かった。

 教授の講演の演題は、「日本の吹奏楽の歴史」であった。吹奏楽は外国の軍楽隊からもたらされ、その後の発展にも軍国主義体制の影響が大きかったとの話だった。そのためか、現代でも学校教育における吹奏楽部の活動は、管理的な傾向が強いと。また、最後の方で、「吹奏楽は楽器の奏法の修得が難しく、とかく技術面だけに偏ってしまいがちである。本物の音楽がどれくらいの割合で存在しているのか…」と述べられたのが印象的であった。

 講演の後は、学生諸君による演奏会が行なわれた。前半が木管合奏、後半が金管合奏というプログラムで、後半は教授のホルンも加わった。

 さすがはプロの卵、いや既にプロのレベルに近い学生たちである。素晴らしい演奏であった。とりわけ、昔だったら考えられないことだったであろう、ファゴット、ホルン、トロンボーンなどという低音楽器を担当する女性奏者のレベルの高さが印象的だった。もちろんフルート、クラリネット、オーボエ、トランペット、チューバ等の楽器も素晴らしく、アンサンブルの妙は聞く者の胸を高鳴らせた。

 教授先生と学生の合奏も、とても魅力的なシーンだった。若者に対する大人の姿として、この格好よさには嫉妬を覚えるほどであった。

 そして、演奏を終えた時の学生たちの、はじけるような笑顔が心に残った。実に楽しそうであった。これから10年後も20年後も、演奏家として活動を続けるにあたり、その笑顔を忘れずにいて欲しいものだと思った。



ーーー8/30ーーー 重文目黒邸

 福島県は南会津にある材木屋へ出掛けた。その帰り道、国の重要文化財となっている目黒邸に立ち寄った。場所は、只見から新潟県の小出へ至る会津街道沿いの旧守門村、現在の新潟県魚沼市である。

 目黒家は、江戸時代から続くこの地方を代表する豪農であった。その大庄屋職の役宅と住宅を兼ねた建物が目黒邸である。現在は文化財として管理され、一般に解放されている。

 その当時の豪農の威勢がしのばれる建築である。正面に立つと、独特の形をした茅葺きの大屋根が、圧倒的なボリューム感で迫ってくる。冬には3メートルを越す豪雪に見舞われる土地である。建物は質実剛健の気風に満ちている。
 
 建物の中に入ると広い土間があり、住居として使われていた当時そのままに、囲炉裏に火が焚かれていた。薄暗い室内に目が慣れると、巨大な柱や梁によって組まれた構造が見えた。このような材を集めることも、そして組み立てることも、大変な苦労であったに違い無い。

 建物の大きさだけに目を奪われてはいけない。農家とはいえ大庄屋ともなると、名字帯刀を許され、藩の行政の一部をになっていた役職である。藩の役人を迎えることもあったので、室内の座敷はそれなりの格式を有している。茶室などもあり、庭園も見事に整っている。

 建物全体の細部に至り、質素な雰囲気ではあるが、周到な細工が施されており、洒落た意匠が溢れている。日本的な美の世界を感じ、気持ちがすーっと落ち着いていくような気がした。

 同じ敷地内に、資料館もあった。豪農目黒家に関する古文書や生活用具などが展示してある。豪農ともなると、知性教養を身に付けなければならなかった。折々の時代の文人墨客を招いては、茶道、書道、絵画などを学び、また工芸調度品を収集したようである。近代になると、西洋文明の取り込みにも熱を注いだ。自動車を購入したのは県庁についで二番目。電化製品などもいち早く手に入れ、ラジオ放送の開始に備えて巨大なアンテナを建てたこともあったとか。

 明治に入り、目黒家からは県会議員を出し、さらに二代続けて国会議員も出した。国鉄只見線の敷設、水力発電所の建設、道路の整備、その他産業、教育、文化の振興のために尽力したとのこと。

 この建物は、そんな目黒家の一部始終を眺めながら年月を重ねてきたのである。

 



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